先日お伝えしたラクロスNCAAトーナメント決勝戦観戦ツアーの、ボストンでの男子ラクロスの準決勝、決勝の観戦では、日本から試合を見に来ていたラクロス仲間の方々とご一緒させて頂いた。学生時代にラクロスをプレーしていた頃にお世話になった方々だったのだが、その時以来の再会で、非常に懐かしかった。「お互い変わってないねー」「ちょっと太ったね」とその後の話や将来の話をしつつ、盛り上がり、最高に楽しい時間を過ごさせて頂いた。
そこで、その中の一人の方から非常に心を打たれる話を伺った。
てな訳で、ごめんなさい。ここらでまたしてもアッツイ話を一発書かせて頂きます。
1.出会い
彼は、高校時代からラクロスをプレーし始め、大学では最も強かった伝統校のチームでプレーし、その後も社会人になって強豪クラブチームのエースとしてチームを何度も日本一に導いた方で、日本のラクロスの世界での第一人者。骨格が大きいのに加え身体能力も高く、またスティックワークも安定しており、且つスポーツで必要なクレバーさと揺らがぬメンタル、そして何よりも大事な、『努力する能力』を兼ね備えた素晴らしい選手で、日本のラクロス界でも、「最も日本人離れした選手」の一人として認知されて来た方。
(一瞬完全に横道にそれてしまい、且つ100%私事で恐縮なのですが、僕が所属していたチームのウェブサイト。画面中央の写真のフラッシュの右下の「何のために。」とか「ALL MOVIES」をクリックすると、チームのプロモーションflash movieが7つほど見られます。僕はMBA出願の過程で何度も心が折れそうになりながら、この動画を見てやる気を鼓舞してました...もしご興味あれば是非見てみて下さい。音声付きで。完全に余談です。ごめんなさい。)
2.知らなかった過去
彼にお会いするに当たり、ここ数年ラクロスの世界から遠ざかっていたこともあり、お会いするに当たっての基本動作ということで、事前に彼がここ数年どういう活動をされていたのかを下調べしておこうと思い、ググッて(Google検索して)みた。すると、僕の知らなかったここ数年の彼の軌跡に関する情報がいくつか引っかかった。どれどれ、と思って見てみると、スポーツ関連のメディア系のホームページで、海外に挑戦する日本人アスリートの特集記事の中で、インタビューを受けていた。おりょりょ?そんなことされてたんだ、と思い、じっくり読んでみた。
従って、ハード面で大きなハンディを負った状態。もちろん、ゲームに対する知識や経験というソフト面も、大きく足りない状態だったと想像する。少しでもご感覚を持って頂くためにもう少し補足すると、(もちろん本当の国民的スポーツであるアメフト、バスケには比べるべくも無いが)競技人口数十万人という大きなピラミッドの中で本当にえりすぐられたエリート・オブ・エリートのみがプレーする場であるプロリーグに挑んだ。しかも、その環境の中で実際にパフォームし続け、実力を認められ、そのフィールドに立つ本当に一歩手前のところまで行ったのだ。
3.挑戦
その話を聞いて尚更お会いできるのを楽しみにしていた。実際にお会いすると、非常に紳士的で、成熟した、尊敬できる大人という印象。意思の強さと、人間としての魂の強さが伝わってくる。そして、一緒にいた2日間の中でいろいろとお話を聞かせていただく中で、いろんなことを知った。
彼は日本のトッププレーヤーとしてプレーし続けながら、常に、世界最高峰のフィールドであるアメリカでプレーしたいという想いを抱き続けて来たという。高校時代からワールドカップで世界最高峰の選手たちと渡り合って来て、(もちろんラクロス後進国の日本と、ラクロスの発祥の地であり本場でもあるアメリカとでは大差の戦いになるのだが、)その中でも彼はそのレベルを肌で感じたのだと言う。そして、個人として本気でぶつかり合った時、そのレベルでやれるのではないか、少なくとも通用するのかどうか試してみたい、最高峰の環境にどこかで一度チャレンジしてみたいという想いが強くなったという。
その後の挑戦も、決して平坦な道のりではなかったらしい。
最初に、何とかアメリカのチームでプレーするために、過去の国際大会で知り合ったクラブチームの伝を辿り、最初の一年間、アメリカ東海岸のそこのチームに混ぜて貰ったとのこと。そこで、アメリカのラクロスに慣れると共に、実績を残し、名前を売り、ラクロス界の重要人物たちとコネクションを築いていったという。その過程で、最初はプレー面でもかなり苦労されたと仰っていた。国際大会で日本代表の一員として米国代表と試合をするのと違い、実際に彼らの中に入ると、そのプレースタイルや哲学が、日本のラクロスとは全く別のスポーツであるかのように錯覚してしまうくらい、全く異なっていたと仰っていた。それにアジャストするのにかなり苦労されたらしい。
4.道程
そして何よりも僕の心を打ったのは、そのプロセス。彼はどちらかと言うと物静かな性格で、明らかに、生まれ付きのお喋りの超社交好きというキャラではないように見えた。英語力も、帰国子女でもないし、(大変失礼ながら)決して上手くはなかったと彼の友人が仰っていた。そんな状況で、何回か試合をしたからという伝を辿って、たどたどしい英語を省みずチームに合流し、そこで地道にコネクションを作っていった。
トップクラスの選手、経営サイドの人間のほとんどが東海岸の伝統的名門校出身者でがっちり固められたコミュニティであるプロラクロスの世界に徐々に入り込んで、「つか、誰あいつ?」「ああ、なんか日本人らしいよ」「ふーん」という状況から、「○○っていう日本から来た面白い選手がいるから今度見てみてよ」となり、遂には「結構いいね、今度トライアウトに呼んでみるか」というところまで地力で持っていったのだ。ラクロスの実力を磨くことはもちろん、そうやってアメリカ独特の「ネットワーク文化」を理解し、本来弱みであるはずのコネを、地道に積み上げ、最終的には強みとしてレバレッジすることで夢の実現へとゴリゴリと近づいて行ったのだ。
5.「リスク」
そこで、彼のチャレンジにいろいろと想像をめぐらせる。恐らく、いろんな不安や葛藤があったのかも知れない。
彼は日本のラクロスの世界では誰もが知っている、ヒーロー的、カリスマ的選手だった。日本に残り続ければ、そういう立場で他の選手やファンたちから尊敬され、誰もが羨むキャリアを歩めただろう。アメリカに行ったところで、どれだけ試合に出られるか、どれだけ通用するかも見えない。そこでキャリアが行き詰ってしまうリスクだって想定されただろう。人によっては、敢えてリスクなんか取らずに、迷わず日本に残り続けるという選択をするケースも多いだろう。
それでも尚、彼は、それらの不安や反対する声を振り切って、自分の夢を信じて、挑戦した。悔いの残らぬよう。結果としては、最終的にプロ選手になることは出来なかったのだが、その一歩手前まで行けた。
恐らく、自分のcomfortable zoneから飛び出し、新しい世界で試行錯誤するプロセスで、大きく成長されたのではないかと想像する。
彼と会い、この話を聞いて、心の底から痺れた。そういう生き方に強く共感を覚えた。心底、むちゃくちゃカッコいいと思った。
6.生き方
人それぞれ、夢や想いがあって、価値観があって、人それぞれ取れるリスクや経済的な制約条件があって、そんな中で各々がいろんなチャレンジをしたりしなかったりして生きて行くんだと思う。夢があっても、チャレンジできるだけの実力が無かったり、実力があっても、そういう機会が無かったり、機会があっても、いろんな理由で敢えて踏み出さないことを選択したり。もちろん、どんなに実力とチャンスが有っても、これまで積み上げて来たものを失うことを勿体無く感じたり、先の見えない道へと踏み出すことに躊躇を覚える人も多いだろう。
ラクロス観戦に行った旅行で、試合そのものとは別のところで、思わぬ感動と刺激を受けた。
IM class of 2009
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